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ACにPTSDの一致を感じた文章

  • hyggeinfo
  • 2022年10月11日
  • 読了時間: 12分

更新日:2022年10月11日


2022/10/11




この本の54~55ページにi(アイ:わたし) のPTSDの認識と近い記述があったので、あげます。



注意していただきたいのは、これはPTSDについて書かれているわけではなく、AC(アダルト・チルドレン)について書かれているということです。





ちなみに、AC(アダルト・チルドレン)とは、幼少期の家庭環境の影響で、大人になった後も生活において困難を感じているのことです。


この言葉が少し やっかいなのは、アメリカと日本ではACの範囲が違うということ。



アメリカでは、親がアルコール存症だった場合にのみ ACと呼び、日本では、(アルコール依存症に限らず、薬物や犯罪など) 子どものころの 親等による 家庭環境が原因となり、大人になっても生きづらいすべてをACと呼んでいます。



※アメリカで生まれたACの語源は、アダルト・チルドレン・オブ・アルコホリックス(Adult Children of Alcoholics=ACOA)で、アメリカでは 今も このACOAだけを[AC]と呼んでいます。


<本文>


ACは自己認識であるということ



(略)


自己認とは、「」が「」をどうとらえるかということです。


たとえば、たちは自分は)だと思っていますが、それは本当でしょうか。


最近では自分の身と自分を)だとする認(性自認)が不一致であることが認められるようになっています。


また、自分は子どもだ、これも自己認です。


それから、自分はなにものか、自分は区の職員である、これも自己認のひとつです。


 

 

 そういうふうに、たちはいくつもの自己認知をしています。


その全部の役割を総動員しても、いったい自分は なんなんだろうか、という わからなさがある。


つまり、こんなには模範的な生活をして、の誰からも非難されない生活を送っているのに、なぜ こんなに生きづらく思っているんだろうか、と。



そんなとき、ACという言葉がすき間をぬって登場するのです。




客観的にから見てどうかというのはACではありません。



客観性をもたないのがACです。



言い方を変えると、誰かい先生(=医師)が診断するものではありません。



「ACというのは、のことかもしれない。ああ、はACだったんだ」と思ったら、そのは、ACだと思ってかまわないということです。




 ACは何か特徴があるとか、チェックポイントが二〇項目あって、そのうちいくつ以上当てはまればACだとする見方がありますが、それは自分に対しても、ACという言葉に対しても変失礼なことです。


に決めてもらうことでなくて、ACか否かは自分で決めることです。


 

 なんでもかんでも客観性をもつことが正しいと考えているもいますが、ACについては違います。



1+1=2、これは正しい。


気圧が高いと高気圧、これも正しい。




でも、自分がACかどうかは客観的にはわかりません。

自分で決めることです。




 自分はダメだと自己認知する、自分は醜いと自己認知するもいるでしょう。


でも、同じ自己認知でも、ACは自分が楽になる自己認知です。



ACと思って、これでは先が見えるんじゃないか、自分のこれまでがすっきりと整理できた、自分の過去をこれでたどれるんじゃないか、そう思ったは、ACを自分のアイデンティティにしていただければいいのです。



 これが、AC本に いちばん やさしい考えかただとは自負しています。


 自分がなにものか と考えた時、それが自分にとって苦しいアイデンティティなら、そんなものは捨てればいいのです。



自分が楽になるアイデンティティを自分は取り入れる。


だから、ACと思って楽になるはACだと思えばいいと、は考えます。



<読んだ感想>



 自分がなにものかと考えた時、それが自分にとって苦しいアイデンティティなら、そんなものは捨てればいいのです。



という考え方は さすがだと思いました。





i(アイ:わたし)は、『性暴力被害者は、本が「PTSDではない」と言った時のみ、PTSDから外れる。そう言わない被害者はPTSDで良い』という考えに行きつきましたが、


この信田さよそじんのACの当事者のためを思って考えた方法に、なにかPTSDにとって参考になる良い部分があると感じました!!




このかたのように、当事者のことを 何より最優先で考えるを専門家だと呼ぶ世の中になるべきです。



専門家や病院のことを 少しでも気にすると、当事者に碌なことがありません。

過去に精神科病院で行われたことを見ると、悲惨なことばかりです。


その多くは精神科医の指示で行われます。



もちろん今も行われています。




ACとPTSDの違いで、ネックになるのは、ACは診断名ではなく、PTSDは診断名であるということです。



ACは医師の診断名ではないから、専門家が提示した受動的な方法をやめて、当事者が自分で選びとる能動的な方法をとっても、医療の混乱は生じませんから、公認心理士・臨床心理士の著者も「この方法はどうでしょうか?」とAC当事者に提することが出来ます。




しかし、PTSDは、精神科医の診断名であることによって、PTSDかどうかが判断されますから、当事者が自分で決めると、今まで機能してきた施設や裁判、仕事上で混乱を生じます。




このような精神病院の売り上げのシステムなど資本主義上の問題によって、当事者の方が蚊帳の外におかれ、自分ではどうすることも出来ないことに翻弄されて、生きていくことが困難になります。



例:レイプに遭いPTSDなのだが、働けないと生きていけないので、配慮のあるA型就労で働きたいが、精神科医の診断が必要になる。

だが、他者に自分の被害のことを話したくない。

薬を飲みたくない 等があっても精神科医の診断が必になって、配慮ある所で働けない。

(そもそも日本の社会は精神論ありきで働くことが前提なところが殆どなところも大問題だが!)




まずは当事者は、PTSDを自身で選んで良いのではないかと感じます。




精神科医という職業は、苦しんでいるを使って生活費を稼ぐ必のある職業でもあります。

(その精神科医自身のせいではないですが、)そのシステムを使って、本当に救助してもらうことは叶いません。


この日本で現在、当事者が生きていくためには、精神科医の都合や病院の都合、世の中の都合を、まずは無視し俯瞰して見る必があります。




we(ウィ:わたしたち)は援助を受けるために精神科医に診断書を書いてもらうよう通う必あります。



精神科医の言ったことは真に受けず右耳から左耳に流しても全然良いです。

定期的に通わないと診断書を書き続けてもらえないのです。



それ自が出来ない被害者が多いので、そもそもサービスを受けるために精神科医の診断書が必なことが問題なのですが、それがに出来たときに自分が精神科医に嘘をついている「嘘つきだ」と悩む必はないです。このシステムの中で被害者がサービスを受けようとすると嘘つきになるしかない そのシステムの方に問題があり、その罪悪感を抱かせるのも、間によりそっていないシステムということです。




本来は国の現状や精神科医や、障害がないかたを正常だと考える考え の方を変えていく必がありますが、それには時間がかかったり、時にはあっという間に逆してしまうこと間社会ではよく起こることです。


例:アメリカで1973年に中絶手術がはじめて認められたが、今年2022年6月25日米連邦最高裁 “中絶は女性の権利”だとした49年前の判断覆した。





性暴力当事者は、まずは自分の現状をしっかりと見据えるため、精神科医の言うことを自分より上だとか、自分より専門家だなどと考えなくて良いのです。




当事者以上の(その心の状態の)専門家はいません。


それを考えることも出来ずに上から教える態度をしてくる専門家は論外です。







【心的外傷後ストレス障害】という名は、何かの事が起こったあとに、その事が起因となり自分が生きづらさを抱えることになるということ。




「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」や「事件生きにくくなった」などと聞いて、しっくりくるは、医師が何と言おうと、自分が選んでも良い病名なのではないかと感じます。




被害後の生きづらさを医師が判断する必があるのでしょうか?



がどう感じるかなのではないでしょうか?





このとき、当事者をそのままじていいのか気をつけなければならないのは、本がやけに元気すぎたり、「自分は性暴力で心に傷を負っていない」と言うに対してではないかと考えられます。


どちらかというと、精神科医が気をつけて診なければいけないのは、また時には助言が必なのは、こちらの方々ではないでしょうか?





i(アイ)は「PTSD(心的外傷後ストレス障害)で苦しい」と精神科医に言い、精神科医は「あなたはPTSDではない」と言いました。


これは問題外の対応です。




i(アイ))は本当のことを自分で選択できていたのに、精神科医のせいで、20年生を遠回りをすることになりました。


裁判の判決に関しては、一生返ってきません。




ただ、i(アイ)はきちんと自分の病名を選び取れていたのです。





ほんとうに医師の力、専門家の力を発揮しなければならないのは、本が性暴力で傷ついていないと言ったような時なのです。




5才くらいに性暴力に遭った被害者が20年後 急に、記憶がよみがえりPTSDになることもあります。



⇈出典:『第1回精神保健福祉士の養成の在り方等に関する検討会 参考資料(平成30年12月)』(厚生労働省)【We介護のサイトより】





日本の精神科はこれまでは、全く見当違いのことばかり(むしろ大きな加害者になる行為を)大事にしてきました。


例:優生保護法で去勢する





 医師や専門家は、やけに豪華な車に乗っています。



きな精神科の病院に行くと、医師の駐車場エリアはすぐに分かります。

大きな車や外車、高級車が並んでいるエリアがあるからです。



医師だけではありません。


この12年ほどで障害者などの支援場所・就労支援場所などが続々と出来ていますが、そこに不釣り合いな外車等がまっていることが多いです。


利用者ではないことは一目瞭然です。




どういうことかは、考えたらすぐに分かります。


①ボランティアではなく支援という仕事をしているということと、②そのような車に乗れる支援者のお給料は高いようだということです。



B型事業所は時給が100円程のところが多いのですが、支援者は「雇用契約ではなく、工賃だから最低賃金とは関係がない」とか「く能力が民間のようにはないのに、稼ぎ出していないのに、そんなにお給料あげられないでしょう」「遊んでばかりいる」「毎月お小遣いが2万円もあるから十分」などと言います。



支援者のほうはカッコイイ車に乗っていたりします。



お小遣いが2万円だった時に、「毎月お小遣いが2万円もあるから十分」と考えるタイプには見えません。





B型だろうが、どんな事業所といえども、そこの場所に拘束されている間は最低賃金を払うべきだとiは考えます。


もちろん特性があり働けなかったり、たとえサボっているように見えても、そういう方への就労支援なのですから国が補助して、最賃金を払う必があると定めるべきだと思います。



「知的疾患があるから、(最賃金ではなく工賃という考え方で、時給100円位なんです」などということは、間扱いしていない差別だとるべきです。











日本における精神障害者に関しての初めての法律が1900年に生まれ(精神病者監護法)、120年たって、やっと、日本の精神科が、世界の精神科と大きく違う【闇】があることが暴かれ始めました。


しかし、ほんの欠片のみです。



精神疾患者が闇だ(きちがいだ)】と差別するもいますが、実際は統合失調症や認知症で声をあげられない達(声をあげることができたとしても、判断能力がないとされ声にならない等)を使った医師たちが 日本中で 虐待していた【闇】が暴かれめているということです。




もしに、【精神疾患者自身が闇(きちがい)】ならば、国でもそうなるはずですが、先進諸国の精神疾患者は日本とは比べ物にならない日数で退院します。



15年程前、イギリスの本で精神病院ではないのですが、入院は2週間以内に退院させると読んだことがあります。それ以上入院すると足腰が弱り、筋力が衰えると認機能に影響がでて一生退院できなくなる恐れがあるというものでした。


イギリスでは、精神疾患者も身体障害者も出来る限り一般のコミュニティーで共に生活することが良いとされているようでした。


隔離をするから余計に差別者が増えるのです。



それでも先進諸国でも、当事者から「差別が酷すぎる」「虐を受けている」と声が上がっています。



先進諸国でも話せないに対しての虐はすぐに起きます



間とはそういう生き物だと知る必があると感じます。


間とは、頭が良くても、宗教家でも、政治家でも、相手が話すことが難しい事が分かると歯止めが利かなくなる生き物なのです。







⇈熊本日日新聞より

法律では2時間以内の拘束のみ許可されているはず!

は2時間以内でも拘束は禁止すべきだと主張します。


自傷為の強い自閉症のかたへ先進国がどのようにしているのか、調べてみようと思います。日本の精神科医ら専門家は、それくらいすべきでしょう。

身体拘束が答えなわけがないだろう)








試しに、この信田さよそじんの文章、ACの言葉を、ただPTSDに変換してみます。



ただのの興味本位であって、下の文章は、本とは関係ありません。



PTSDは自己認識であるということ



(略)


客観的にから見てどうかというのはPTSDではありません。


客観性をもたないのがPTSDです。


言い方を変えると、誰かい先生(=医師)が診断するものではありません。


「PTSDというのは、のことかもしれない。ああ、はPTSDだったんだ」と思ったら、そのは、PTSDだと思ってかまわないということです。




 PTSDは何か特徴があるとか、チェックポイントが二〇項目あって、そのうちいくつ以上当てはまればPTSDだとする見方がありますが、それは自分に対しても、PTSDという言葉に対しても変失礼なことです。



に決めてもらうことでなくて、PTSDか否かは自分で決めることです。


 

 なんでもかんでも客観性をもつことが正しいと考えているもいますが、PTSDについては違います。


1+1=2、これは正しい。


気圧が高いと高気圧、これも正しい。



でも、自分がPTSDかどうかは客観的にはわかりません。

自分で決めることです。



 自分はダメだと自己認知する、自分は醜いと自己認知するもいるでしょう。


でも、同じ自己認知でも、PTSDは自分が楽になる自己認知です。


PTSDと思って、これでは先が見えるんじゃないか、自分のこれまでがすっきりと整理できた、自分の過去をこれでたどれるんじゃないか、そう思ったは、PTSDを自分のアイデンティティにしていただければいいのです。



 これが、PTSD本にいちばんやさしい考えかただとは自負しています。


 自分がなにものかと考えた時、それが自分にとって苦しいアイデンティティなら、そんなものは捨てればいいのです。



自分が楽になるアイデンティティを自分は取り入れる。


だから、PTSDと思って楽になるはPTSDだと思えばいいと、は考えます。






引っかかった部分は、



【それは自分に対しても、PTSDという言葉に対しても変失礼なことです。】



というところです。


この記述は、苦しんでいるをさらに苦しめる可能性のある書き方なので、変えた方が良いとは思いました。


しかし、それは書き方を変えるだけのことで考え方はよく分かります。



信田さよそじんの考え方は、自分の考え方にかなり近いと感じます。

 
 
 

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