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川崎病① 論文発表まで

2023/05/06


<川崎富作について>


1925年2月7日生まれ~2020年6月5日95才没



1925年、東京浅草生まれ。

の希望で医師の道にいく。


1943年(18才)千葉県医科学、臨時属医専門部に合格。


臨時属医学専門部について

抗日戦争(日中戦争は)1937年7月7日~1945年8月15日。

(第二次世界戦は1939年~1945年。

太平洋戦争は1941年~1945年。)


臨時医学専門部の設置 1939年5月。

政府は隊附軍医の不足を解消するために、 帝国学 7校、官立の 医科学 6校に臨時医学専門部 の設置をった。



学中に終戦。


1948年卒業(23才)、千葉医科大付属病院のインターンになる。


インターンについて

1946年、GHQ(連合国軍総司令部)の改革により導入された制度。

この実地訓練制度はinternshipと異なるとの指摘もあるが、GHQの内部資料、当時の政府の諮問の審議会とも「インターンシップ」としていた。


1950年(25才)日赤中央病院(現・日本赤十字社医療センター)小児科勤務

1957年(32才)医学博・学位取得。




1961年(36才)、1月5日 日赤中央病院(日本赤十字社の総本山)に不思議な発熱の4才のが入院してきた。


川崎が診にくと、ぐったりと横たわっていた。


今までに見たことがない症状があり、奇異な印象を受ける。


両目の充血、唇は赤く亀裂で一部血が滲みでて、口腔内の粘膜は真っ赤、舌はブツブツしてイチゴのようで、手のひら、足の裏も発赤、左首に大きく腫れたリンパ節があり、痛いため首を動かさない。


そのは「12月30日に首を痛がり、31日の晦日から左の首が腫れて熱が出た。

発熱が続いたので、正月に開業医に頼み抗生物質を処方された。

しかし1月3日から度も嘔吐し苦しがっている」と報告。


川崎は溶連菌感染症の特殊タイプだろうか?と疑い輸液とペニシリン(抗生物質)投与を看護師に指示。


その後 高熱の持続、黄疸(おうだん、英: jaundice)、全身の紅斑が出る。


抗生物質は効かず、種類を変えても効果は出ず、食欲もない。


1月12日(発症から14日、入院から7日)、指先から皮膚が膜の様に剥げ落ち(落屑 らくせつ)、翌日から体温が下がりめる。


その後 症状が改善、2月9日に退院。




<川崎富作の考察>


細菌感染症と定すると、培養検査で細菌が検出されず、抗生物質も無効で矛盾。


麻疹・風疹などのウィルス感染症と定しても症状や経過が合わない。


スティーブンス・ジョンソン症群(薬の副作用などでおこる疾患)の特徴の目やに、粘膜の水ぶくれ もない。




医局の勉強会に症を提示し意見を求める。


先輩の小児科医から猩紅熱(しょうこうねつ)に間違いないと強い口調で言われる。


川崎富作は猩紅熱特有の細かい丘疹(きゅうしん 皮膚から盛り上がった1㎝以内のブツブツ)がないと反論。


咽頭培養で溶連菌が出ないこと と、ペニシリンが効かないことも報告するが、先輩医師は取り合わなかった。



1962年3月、【敗血症疑い】の入院希望者の1才のが日赤中央小児に訪れる。


1年前のとそっくりの症状。


抗生物質は効かず、解熱後 皮が剥け 退院。

その後も5例 同じ症状の患者を診た。


"教書にない病気だ" と確信。


1962年10月、日本小児学会千葉県地方会で報告するが、反響は一切なかった。


その後も年5~10人ほどが同じ症状で入院してきた。


1963年、東日本・中部日本合同小児学会で「眼皮膚粘膜症候群(以前からある名前)の20例」と今までのデータを発表。


このタイトルは前(こうさき)小児部長に命令を受けたためで、川崎は不本意。


1964年前小児科部に「川崎の言っていた病状が確かにあった。確かに眼皮膚粘膜症群ではない」 と告げられる!


小児以外にも意見を聞くと、【東大皮膚科の勉強会】に出すようにアドバイスを受ける。


ベーチェット病の家・西山茂に患者を診てもらうが、診断がつかず、「われわれ臨床家は、こういう未知の病気を診ることが一番の楽しみですよね」と言われる。


西山が疑ったジアノッティ・クロスティ症群について調べるも原因ウィルスの感染もなかった。


前・西山から論文を書いたほうが良いと促される。


当時、論文にカラー写真を載せるためには34万円かかり、当時の川崎の月給の6倍弱だった。


同じ小児医のグッティ(に相談し、34万円を承諾してもらう。



論文原稿の名は「指趾(しし)の特異的落屑(らくせつ)を伴う小児の急性熱性皮膚粘膜淋巴腺(リンパ腺)症群」


(これが英語で今でも使われるMCLSという略語になる)




1967年、世界初の川崎病の論文が『アレルギー』誌に掲載される。


この論文は全国から問い合わせがきて、この病気が全国に広まっていたことを川崎本ることになる。


 
 
 

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