<さよなら男社会>男性著➂
- hyggeinfo
- 2022年10月4日
- 読了時間: 17分
更新日:2023年2月6日
2022/10/04 挿絵や写真は勝手に入れたもので、本書とは関係ありません。

【『女性は感情論で話す』のか】
長らく僕はインタビュアーの仕事をしてきた。(略)
セッションを受けたうちの九割が女性だ。
彼女たちの多くはセッションが始まる前に必ずといっていいほどこう言う。
「何を話していいかわからない」「申し訳ないが、まとまらない話になると思う」(略)
僕が発見したのは、彼女たちは独自の文法と語彙を持っていることだ。(略)
「考える」ためには、その前に「思う」があり、さらにその前には「感じる」がある。
いまだに「女性は感情論で話す」と言ってのける男性に出くわす。(略)
だいたいは彼らの身近にいる女性たちの話のまとまりのなさから、そのような判断に至っている。(略)
男性の文化に養われた感性で「自分が何を感じているか」に着目せず、自分の中で慣れ親しんだ、男社会の平均的な感覚に従って考えているだけかもしれない。
本当はそんなふうに感じていないにもかかわらず、社会的な合意が取れる論理に従っているだけではないか。(略)
男性が論理的なのではなく、これまで続いてきた男社会において、男性の間で通じる話法が「論理的」と評価されているだけ(中略)

⇈FII(Feminism In India・インドのフェミニズム)はスウェーデンの研究所と協力してポッドキャストを提供しているようです!
声を聞けないものは、マンスプレイニングをせっせと始めてしまう。
マン(男)+エクスプレイン(説明)から造られた語が意味するのは、「君はものを知らないのだから教えてやろう」といった、無邪気にも主導権をとれると思う不遜さだ。(略)
※不遜(ふそん:へりくだる気持ちがないこと。思いあがっていること)
「そうなんですか」「すごいですね」と返すのは「女性は共感性が高い」からではなく、逆らうと面倒なのと、そうやって褒めてやらないと ぐずり出すと経験的に知っているからであって、男たちの能書きに同意しているわけではない。
マンスプレイニングでないとすれば、次に出会うのは「要するに何が言いたいのか」といった定番の詰問のフレーズだ。
これは職場に限らない。(略)
「男社会」であれば、公私の別なく関係性に影響を与えるからだ。
それにしても なぜそうまでして「要したがる」のか(略)
「要するに何が言いたいのか」とは「俺のわかるように話せ」にほかならなず、いま現に話していることを受け取らない、拒絶のメッセージでしかない。

【克己心という意気込みの表明】
(※克己心/こっきしん:自分の欲望をおさえる力・自制心・打ち勝つ力)
小学五年と六年の二回、父の意向により僕は次世代の経営者を育てるための五日間にわたる研修に参加した。
一日の始まりは「おはようございます」と、近くにいたら うるさいだろう としか思えないくらいの大きな声で挨拶するように言われ、人に何かしてもらえば、「ありがとうございます」と感謝の言葉を これまた大声で すかさず述べることを求められた。(略)
謙虚さを失わせ、鈍感にさせようとしているとしか感じられなかった。
研修内容を簡潔に言えば「やればできる」「感謝」に尽きた。(略)
自宅の書斎は松下電器(現パナソニック)の創始者、松下幸之助に関する書籍やビデオの類をはじめ、努力と感謝によって利益がもたらされ、それがひいては世の役に立つ、といった「成功の哲学」をうたう本がたくさんあった。(略)
どの本も「商売道」とでも いうほかない、泥臭い精神論を大いに語っていた。(略)

克己心は勝利と結びついており、(中略)(加筆:テストで)点数が低ければ それだけの理解しかしていないということであり、良いも悪いもない。
人間性とは関係ないはずなのだが、(中略)勝利できないとすれば、その人間が怠惰であるという考えは疑われにくいものだった。
そして、ここでいう「人間」は主に男性を表す。
経営者の子供は男ではなかったはずだが、研修には女の子は参加していなかった。(略)
克己心という意気込みを強調すればするほど、実際の自分とそうなりたい自分との間にズレが生じるはずなのだが、大人たちはそうした感覚のもたらす違和を どうやら問題にしていなかった。
おそらく現実と理想のズレがあったとしても、それは一致できない「心の弱さ」で片づけてしまうのだろう。(略)
男たちの文化においては「感覚よりも論理」が重視されているはずだが、ズレという違和感を言葉にしないのは なぜなのだろう。(略)
おそらく違和を感じない、あるいは感じてはならないという感覚の固定化を自らに敷いているからだろう。
【父の抑圧】
父の示す守るべき規範からはみ出た場合、あっさり切り捨てられるという予感をふたり(加筆:兄と僕)揃って たくましくした(略)
僕は長らく 他人に向けて怒ることができなかった。(略)
怒ることに対して タブーに近いのは「切り捨てられるかもしれない」といった、かつて味わった恐れの感覚をもたらすからだ。

⇈星一徹:巨人の星の父親。
コミックなどで、父親像は「頑固一徹」という描き方が多い。
家庭内の三人(加筆:兄、父、僕)の男たち(中略)
に共通していたのは、自分の気持ちや感情を表した経験が乏しいことだ。(略)
父は折に触れてこう言った。
「金を稼ぐこと。教養を身につけること。喧嘩では必ず勝つこと。
力なくして尊敬は得られないし、力なくして この日本社会を生き抜けない」
(加筆:在日朝鮮人の)父がそのようにして力への信奉と意志を確立したのは、暮らしが到底成り立たない貧困と 吹きさらしの差別で痛めつけられる経験をしたからだ。
実力で自身の存在を確保する以外に この世に身の置き所などない。
彼にとっては 生き残りをかけた信念 であった。(略)
兄と僕に「力を獲得せよ」と命じ続けたのは、彼の戦いが まだ終わっていないからであり、また自身が幼いころのような 無力な存在ではないことの証明 でもあったのだ。(略)
彼が行っていたのは「自分の無力さを武器に 自他の関係を操作する」ことに他ならなかった。
家庭というのものが、親の抱く葛藤のストーリーに子供を巻き込む仕掛けでしか成り立たないのなら、何のために家庭という形態を続けるのだろう。
子供は親を選んで生まれたわけではなく、与えられた環境の中で生きるしかない。
ある意味では 子供は誰もがサバイバーなのかもしれない。(略)
しつけと言われるもの の中身は実は、自分が負った傷をつがせること に なっているのではないか。(略)
彼らの生育環境について思いを馳せると、否応なく浮かび上がるのは、親をはじめとした 上の世代は戦争体験者だということだ。(略)

毎日新聞:東京大空襲1945年3月10日の写真
午前0時8分から2時間40分にわたり、334機のB29が焼夷弾19万発を投下
生き延びて復員した男たちの多くは銃器で人を撃ち、銃剣で刺殺した経験を持つ。
生きることは殺すことで、また殺されることに怯え、飢えと病に苦しむ日々でもあった。(略)
誰がいつ死ぬかはわからない。
空襲されることはわかっていても、家屋を捨てて逃げることも許されなかった。(略)
見渡せば焼け野原。
戦争孤児は浮浪児として捨ておかれ、誰もが必死に生きるしかなく、助けは当てにできなかった。
焼け跡から自分の力で生活を立て直すしかない。
そのハングリーさは(加筆:その後、戦後の日本経済成長につながる)新しい世の中への期待に向かってはいたものの、(中略)飢餓感と切迫感を引き継いだものではなかったようか。
そうであれば、親から子へと伝えられた男らしさは、戦後体験のトラウマを内包していたのは想像に難くない。

⇈<1923年、関東大震災朝鮮人虐殺事件>
「朝鮮人や共産主義者が井戸に毒を入れた」というデマで1000人~6000人の人が虐殺された。
戦争とは関係ありませんが、韓国併合は1910年、第二次世界大戦は1939年~なので、忘れないために ここに載せておきます。
小田修市さんのTwitter:TBS報道特集「関東大震災報告書」(内閣府まとめ)より写真抜粋
暴力を振るい、暴力に圧倒される。
あっけなく死ぬものもいれば、無惨にのたうちまわって死ぬものもいた。
傍で人が悲惨のうちに意味なく死んでいく。
そんな光景を見続ければ、いつしか暴力に対して無感覚に陥る。
戦争は終わっても体験してしまった感覚は消え去りはしない。(略)
感情表現が苦手、寡黙であったかと思うと激高してすぐに殴る。怒鳴る。
あれは不器用なのではなく、PTSD(心的外傷後ストレス障害)なのではないか。
平和の訪れた時代であっても、息子たちはPTSDを起因とする暴力を帯同した振る舞いを男性性として受け取ってしまったのではないか。
その男性性には戦争という癒えることのない、圧倒的な暴力の記憶が刻み付けられているのではなかったろうか。
【軍隊式身体】
キリスト教世界における精神は 神との対話のための装置だが、日本においては精神は世俗化し、向かう先はわからないが「臣民として一生懸命に努める」といった「精神主義」に だらくしてしまった。(略)
(加筆:太平洋戦争でアメリカ軍との)圧倒的な物量を前にしても敢闘との必勝の「精神」が敵を凌駕するはずで、超えられないとすれば、それは精神力が足りないからだ。
(※敢闘/かんとう:勇敢に戦うこと)
こんな風に実情を無視しても、精神主義は決して敗北しなかった。
なぜなら男たちの死は、「玉砕」であって、その精神が全うされる限りにおいて敗北が入り込む隙はなかったからだ。
国家が命じる異様なイデオロギーを前にしても、男たちはすっかり精神によって骨抜きにされていたので、教えられた掟から外れることを恐れ、ただどうしようもない状況に耐え、命令の通りに死ぬ以外に道はなかった。(略)
八十年代のバブル期において、栄養ドリンクのCMは「二十四時間戦えますか」と呼びかけた。
まるで動員であった。
過労死は今般の玉砕だ。

⇈電通過労死事件で被害者と友達のやりとり等:毎日新聞より抜粋
娯楽であるはずのスポーツにおいても、かつての戦争と同じく、勝利を度外視した根性と忍耐の精神主義が幅をきかせた。(略)
「やればできる」という精神主義が僕らに与えたのは、命令に従順ではあっても、「独自に判断できない怖気づいた身体」であった。
それでいて みんなと揃えない身体の持ち主を「出る杭」として打つ暴力の行使には遠慮がなかった。
【自己否定がもたらす力の感覚】
僕が思春期の頃、日本の経済は絶好調だった。
当時の僕の悩みは「則天去私」はいかにして可能か?だった。(略)
(※則天去私/そくてんきょし:則天去私とは、私心を捨てて、自然に身を任せて生きること。夏目漱石が晩年理想とした心境。)
格闘技を始めた。(略)
「随所に主となれば 立処皆真なり」という 禅の教えがある。(略)
常に内省し、自分の心を探り、一挙手一投足にエゴの兆しを感じたらすかさず摘み取る。
そうして「私」を捨て去れば 死を恐れることなく ただ生きることができるだろう。
そんな大安心の 境地に 立てるのではないかと思った。(略)
鍛えれば鍛えるほど 余計に怖くなった。
精神力が増すほどに 恐怖心は増大したのは、おそらく力感はあくまで「それっぽい力強さ」であって、本当の強さをもたらさなかったからだ。(略)
「痛いって顔をするな。前へ出ろ」「ほら、気合入れろ」とコーチや練習仲間から常に叱咤(しった)された。(略)
叱咤の効能は高かった。怒りがパワーを生むからだ。(略)
いよいよ自らを傍若無人に扱っても構わないという心境だ。(略)
支配され、他律的になったことを精神力という(中略)
集団的な無意識と呼ぶべきものに寄りかかり、自分が自分の命を全うしていない。(略)
現状の自分をいかに無視するかが精神力の強さの証になる。
精神を尊ぶものたちは、不安を感じる心を弱いとし、不安を乗り越えさせようとする。(略)
けれども彼らには不安はなくてはならないものでもあった。
なぜなら、不安を通じて、他人を支配することが可能だからだ。(略)
自身の行いと感覚を分離することに戸惑いがなくなる。
「なぜそれをしないといけないのか」と問うことも必要ない。
なぜなら目的もわからないままであっても何かを行ってさえいたらいいから。
【『感じる』を軽んじる】
男たちはこんなふうにして 怒りと恐怖を 全身に染み渡らせていっている。
不条理な生き方を強いられているのだから、自分たちは「被害者だ」という感覚をもっている。
そこに ありありと リアリティを感じている。
そのため 男社会との接点で 不当な目にあっている存在がいることに 目が向かない。
たとえ男社会の構造が女性や障害者、外国人、様々なマイノリティに対して差別を生み出す働きをしている様子を目に留めても、冷ややかに見ていられる。
それを冷静さだと思えてしまうのは、自分の直面している現実の方が 切実だと感じているからだ。(略)
感じなさと引き換えに 男たちは 信念や思想のもたらす強さ を手に入れた。
【読書会での出来事】
ある男性がこういった趣旨の発言をした。
「自分がこれまで自然と身につけた考えが女性に対して抑圧的ではないかと思うと怖い。
何が問題化を その都度 教えて欲しい」
参加している女性の幾人かの表情が曇る。(略)
『そうですか。だったら、この小説を百回読めばいいのではないですか』と発言し、
またもう一人が
『どうしていつまでも教えられる立場にいると思えるのですか』と彼に疑問を呈した。(略)
女性が公の場で何か質問なり意見を公表すれば、男性たちに
「何も知らないから教えてやろう」といった侮られる態度を取られることが多い。(略)
彼のような「こちらは知らないから教えられて当然」といった弛緩した態度を平然と取ることに対して(中略)(加筆:優しく教えて)済ますことなど到底できない(中略)
学ぶということが、他人から 懇切丁寧に教えられて然るべきだ と無邪気に信じられてしまうのはなぜだろうか。(略)

⇈日経クロスティックより抜粋
「そこまで目くじらを立てなくても」とか
「せっかくフェミニズムに関心を持っているのに、そんな態度で接してはもったいない」
「だからフェミニストは怖いと思われる」(略)
意見する前にぜひ想像してほしい。(略)
あなたの申し出は、彼女たちが まさに感じている怒りを まったく無視したうえで、こちらの要望を理解せよと 一方的に迫っているのだということを。
ここまで述べれば「だからフェミニストは怖いと思われる」は論外と気づくだろう。(略)
「教えて欲しい」という要望が 対話のスタートラインだ と思っている男性は彼に限らずいる。
だが、これこそが、先述した謙虚から程遠い傲慢な態度なのだ。(略)
「教えて欲しい」の隠された意図は、
「何が問題かもわからないが問題を解決したいと思っている。
だから問題の在り処と解き方と教えて欲しい」
にあるとすれば、言外に明らかにしているのは、
「自分の暮らしとは直接関係のない女性の問題として正確に認識したい」
ということ(中略)
【偽装された弱さ】
上手く立ち回るという性格は 何も積極的な行動でのみ発揮されるわけではない。
遠慮がちな態度によっても可能なのだ。(略)
謙虚で控えめだと評された自分が隠していた姿だった。(略)
外部に見せる顔が偽装であると体感している。(略)
(加筆:これはきっと、前々から そうだと信じ切っていた)「弱いから愛されない」という解釈が誤りだったのだ。(略)
弱いとは ただ弱いというだけで、それも含めて自身であり、その存在が僕自身であり、誰とも交換できない存在であり、望むように愛されなかったとしても 自身が愛しい存在であることに変わりない。(略)
知るべきは、トラウマや葛藤は 解決や克服の対象ではないことだ。
生きることの謎は 生きること自体で解かなくてはならない。
その足取りは まともである必要もない。
なじれ、痛み、跛行しながらの道中であって何の問題があるだろう。
(※跛行:はこう/ 何らかの障害により、かばうように歩いたり、足をひきずったりとした歩行のこと)
【整理されない言葉で】
(加筆:女性の)感覚的だと言われる話し方は「時系列に置きなおして順序良く話すには膨大すぎて、端的にストーリーとして語ることができないくらいの感情と感覚がそこにある」ことを示唆しているのだと僕は理解している。
そして結論が見えないと言われがちな「まとまらない話」というのは、散漫ではなく「分かりやすい解釈を通じて話すことができない」ことを意味しているのだと思う。
だから何が必要かというと時間だ。
耳を傾けるという滞空時間が必要なのだ。
男たちにはそれが凡長に感じて耐えられない。
なぜだろうか。
ひょっとしたら自分とは異なる存在のありありとした「他者性」を感じることを回避したいのではないだろうか。(略)
(加筆:恐怖に打ち勝ち、克服したと実感するたびに、男たちは)ふたつの傷を負った。
ひとつは 痛みと恐怖の体験による傷。
もうひとつは 脆い自分を殴りつけ、自分から追放したという 自責の念が生む傷。(略)
なぜなら 男たちにはそれを吐露する文化がないからだ。(略)
僕らは長年、幼かった頃の自身をネグレクトしてきた。
(※ネグレクト:無視すること。放置すること。怠ること。)
どのように彼らと対話を始めればいいだろうか。
うまいコミュニケーションの方法が世間には溢れているが、そんなやり方で彼らは口を開いてくれはしないだろう。
想像して欲しい。
これまで強くなれと ひっぱたき、そうでなければ 無視してきた子供に いまさら明るく声をかけたり、傾聴するような態度をとったところで、こちらを信用してくれるだろうか。
話しかけても最初は無視されるはずだ。(略)
たった一言の言葉がかけられてこなかった。
それは「どうしたの?」であり「大丈夫?」だ。(略)
全てが変化していくというダイナミックな動きが 自分そのものだと思うと、自分の偏狭さも弱さも それはそれとして受け入れられるのではないだろうか。
変わりゆく自分を歓待する態度が当たり前になるといいなと思う。(略)
それをあなたも幸福に感じないだろうか。
<終わり>


⇈日刊ゲンダイに載っている
尹 雄大そじんの写真
【この本の気になる点】
①男性・女性の順になっている。
ここまで考えられているかたが、やはり男性・女性の順で書いている。
こんな 目で見てすぐわかる並びの男尊女卑が解けないことに、男尊女卑の根深さを感じる。

上野千鶴子そじんは、社会学者としてフェミニズム問題をずっと追っているが、それでも気づくことが出来ません。
I は 上野千鶴子そじんに、そう手紙を書いた。
助言されても、その大切さに気づくことが出来なければ変えることはできません。
※2人を否定したいわけではありません。
むしろ2人のファンです。日本の問題です。

黒人差別にきちんと向き合おうとした白人は「BLACK and WHITE」と黒人のほうを先に呼ぶことに配慮しています。
今後、黒人が白人より差別者になることは有り得るので、その場合は黒人の方が白人に配慮し「WHITE and BLACK」を呼ぶことは有り得ます。
しかし、女性と男性の場合は筋力の問題があり、パートナーを作る上で女性と男性がペアとなり パートナーとなることは多いので、先に女性をもってくることは、男性も筋力の弱い方に配慮することになります。
これは、どちらの性別にも配慮していることになるので、毎回 女性を先に持ってきて良いということです。
②ナオミ・ウルフ著『ヴァギナ』の本にある
女性のオーガズムに関して
この本の中に〔ナオミ・ウルフ著『ヴァギナ』〕を紹介するところがあります。
ワギナは何をしているのか?というところで、【女性は、男性と心の繋がり(男性側の女性への尊敬・配慮等)がなければ結局は 本当のオーガズムはない】
というような趣旨の内容があります。
I は、最初あまり疑問を感じずに読みました。

このことから、客観的に考えて、I はマジョリティーの価値観側のヴァギナを持っているのかもしれません。
(しかしながら、有色人種は、白人女性よりはマジョリティ度は劣ります。
白人女性に合わせようと性器の整形や色をピンクしようとする手術や脱色などの行為はどんどん加速しており、この問題は日本人女性も大いに抱えています。
生まれたままの性器が、自分自身も含め認められる社会になることを望みます。)
少しでもマジョリティ側にいると問題に気づくのが、かなり遅れます。
話を戻しますが、この記述は問題がありそうです。
例えば、世界で問題になっているのは、女の子の性器を切除する行為FGM(Female Genital Mutilation)です。
これは女性器のクリトリス切除を中心に、小陰唇を切除したり、大陰唇を縫合したりするものです。
世界30カ国の少なくとも2億人以上の女性が経験していると言われます。
その多くは15歳未満で受けさせられています。
I はそのような文化に生まれませんでしたが、FGMは オーガズムを感じる感覚を失う可能性が大いにあります。
それどころか 命を失っている人も、合併症等で苦しんでいる人も多くいます。
また、そんな文化圏でなくても、そもそもセックスを好きでない人や、オーガズムを感じない人は多くいます。
男性は女性のオーガズムの満足のために女性への理解や配慮をするというのは、実はマイノリティを深く傷つける可能性があります。
女性のオーガズムは関係なく、単に、男性は女性への理解・配慮・尊敬の姿勢が必要だということです。
※ナオミ・ウルフそじんを否定したいわけではありません。
このように書く背景には、女性への配慮の姿勢をみせてほしいという願い、これならば分かってくれないだろうかと 試し達成できず、 女性が様々なアプローチを続けてくれているということなのです。
③生きることの謎は
生きること自体で解かなくてはならない
この言葉の意味はよく分かる。
生きてでしか解けないし、それで誰かが解いて 次の世代の誰かを少しでも楽に出来たらと思う。
ただ、この言葉は、自死で亡くなった人に対して、非難と受け取られる可能性も残る。
自死は悪くない。
それどころか、その人間は理不尽に苦しんだり、多くは苦しみ続けた人であるだろう。
その人に対して労り(いたわり)と尊敬の念があってしかるべきだと考えます。
もちろん、この著者・尹 雄大そじんは、そういう意味では書いていないです。
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