スターリンって誰?<1953年~死去まで29年ソ連の最高指導者>2022/03/20
- hyggeinfo
- 2022年3月20日
- 読了時間: 31分
更新日:2022年4月6日
『スターリンは何人殺したのか?』という質問を、いろんな国のサイトで見てみる。
⇊ブルガリアのブログblog.bgに載っていたイラスト
(被害者がいるから、この人をギャグにするのは×だと思う。)

ウクライナ語のサイト①:ウクライナのキエフでホロドモール80周年を悼む2013年の記事。
※ホロドモールは、ウクライナ飢饉、スターリン飢饉、飢餓ジェノサイドなどと呼ばれている。
1932年から1933年にかけてウクライナ人が住んでいた各地域でおきた人工的な大飢饉。少なくとも700万人が飢餓で死亡したとサイトは伝えている。
ウクライナ語のサイト②:ロシア人はスターリンを偉大だと言っているが、ウクライナ人は思っていない。プーチンは第2のスターリンのようだというサイト。
ウクライナ語のサイト③:キエフ国際社会学研究所(KIIS)の調査ではウクライナ人の4分の1(23%)がスターリンを偉大な指導者だと考えているが、ウクライナ東部では41%もの人々がスターリンを偉大な指導者だと考えていると書いたサイト。
2022年3月20日現在、ウクライナのサイトでスターリンを調べても、今のロシアの侵攻の記事ばかりが検索トップにあがります。
⇊ウクライナのサイトのホロドモールの写真の1つ。
少なく見積もって500万人がホロドモールで殺されたとあります。

⇊イタリアのサイトleganerd.comに載っていたマリオ
(被害者がいるから、この人をギャグにするのは×だと思う。)

ロシア語でのサイト①:現代の歴史家からのデータは、スターリンによって死亡したのは4000万人~5000万人の間に及ぶというサイトがいくつか。
ロシア語でのサイト②:ロイ・メドベージェフ(グルジアの歴史家)は4000万人、A・V・アントノフ・オヴシェンコは8000万、犠牲者の関係者は1億人以上、ボリス・ネムツォフは1億5000万人という意見だが、
1921年から1953年までの公式データでは642,000人以上が死刑、囚人の総数は30万人~200万人、そのうち765,180人が亡命であるというサイト。
⇊画家フリーダカーロによるスターリン!

中国のサイト①:ソ連最大の新聞であるコモモルカヤ・プラバダは、スターリンの犠牲者の総数は約1億1000万人としたが、総人口は1億7000万人なのだから矛盾していると書いているサイト。
中国のサイト②:1929年から1953年にかけて、戦争の犠牲者を除くと、計1950万人~2200万人のソ連市民がスターリンの弾圧の犠牲者なり、そのうち3分の1以上が死刑を宣告されたか、労働収容所や亡命地で死亡したとある。
⇊ドイツのサイトtoolpool
【Von Stalin lernen heisst siegen lernen!】
(スターリンから学ぶことは、勝つことを学ぶことである。)

アメリカのサイト①:ロイ・メドベージェフは4000万人、アレクサンドル・ソルジェニーツィンは6000万人だが、評判のある学者や歴史家は2000万~6000万の範囲であるというサイトがいくつか。
仮に6000万人だとすれば、毎年平均200万人、毎週4万人が殺されたことになると書かれていました。
アメリカのサイト②:推定2000万人以上。
⇊スペインのサイトdesmotivaciones.esに載っているワリオ
(被害者がいるから、この人をギャグにするのは×だと思う。)

日本のサイト①:4000万人のソ連国民を殺した。
日本のサイト②:毛沢東6000万~8000万、スターリン1000〜6000万人。
日本のサイト③:毛沢東7800万人、スターリン2300万人、ヒトラー1700万人。
日本のサイト④:毛沢東6000万人、スターリン2000万人、ヒトラー1100万人、ポル・ポト300万人、レオポルト2世(ベルギー)200万人。
日本の場合は、ランキング形式で書かれてある記事が検索上位にいくつもあります。
「日本は本当に悪いですか?(たぶん第2次世界大戦のことだと思われます)
世界にはもっと悪い人(悪い国)がいますよ~」という内容が多めでした。
・・・情けないです<m(__)m>
⇊スロベニアのサイトreporterに載っていたスターリンとレーニンのそっくりさん。
モスクワの赤の広場
(被害者がいるから、写真を撮りたい有名人にするのは×だと思う)

<感じたこと>ロイ・メドベージェフの【スターリンが4000万人殺した説】は殆どの国が知っているようでした。
現在はウクライナ侵攻のことがあるからか、ホロドモールのことを書いているものが多かったです。
ここからは、未(わたし)がスターリンを少しでも知るために、日本のウィキペディアを中心に世界のサイトを寄せ集めしたものです。

↑2017年公開・イギリスのコメディ映画↓
(被害者がいるから、この人をギャグにするのは×。女性への配慮のなさ、ロシアをコケにしたい内容で恥ずべきもの。弱いものいじめで、これはコメディではありません)

スターリンについて
⇊ロシアのサイトforum.f1news.ru/より写真抜粋

ソビエト連邦1924年1月から1953年3月5日死去(74歳)まで最高指導者。
正教の神学校で学び、無神論に転向、 マルクス主義信奉者となる。
1899年10月神学校を去り、革命家へ転身。
スターリンとは、【鋼鉄の人】を意味するペンネーム(筆名)。
本名はヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ。
ロシアで、ペンネーム、仮名、偽名をもつことは、革命家の間では一般的。
他のマルクス主義者や地下活動していた人はペンネーム(筆名)を持っている。
レーニンは150のペンネームを持っていた。

⇊ロシアのサイトpropsevdo.ruよりレーニンの筆名抜粋
(一目で ざっとこんなにあるんだぁと感じられるように表にしました)

スターリンは、民族的にはグルジア人(グルジアの英語表記はジョージア)。
⇊2010年に解体されたスターリンの記念碑。
グルジア統一共産党のゴリ支部では修復のための署名を集めており、アレクサンドル・ルスマニシヴィリ局長は、この都市の住民の5人に1人がすでに請願書に署名していると述べた。そのロシア語サイトはこちら

スターリンの母語はグルジア語。
ロシア語を学び始めたのは8–9歳の頃。
水泳が得意。
グルジア人であることに誇りがあり、強いグルジア訛りのロシア語を話した。
ロシアおよびロシア人への親近感は抱いていたものの、ライフスタイルや性格の面では常にグルジア人的。

演説は不得手、文書の形で自らの考えを発表する。
芝居がかった演技はせず、単純明快さと簡潔さを特徴とする。
身長163㎝、厚底靴を履く。

<ソビエト連邦の指導者となってから>
11時起床、昼食15時~17時、夕食は政治局員とその家族とともに21時以降が多い。
夕食後も遅くまで働く。
タバコとパイプの喫煙者。

指導者になってからは、モスクワを殆ど離れない。
旅行嫌い。飛行機は拒否。
物欲は殆どなし。質素な生活を送る。
<趣味>読書、ビリアード、アメリカの娯楽映画、園芸、腕時計収集
<生い立ち>
故郷、ティフリス県ゴリ市は暴力的で治安が悪い場所。
下層階級の生まれ。
1878年12月18日生まれ(1922年以降に本人が誕生日を12月21日に変え、ソ連国内で祝った)
兄のミハイルとジョージは幼児期に死去、実質的に長男。
⇊母

父は靴職人で成功後、アルコール依存症で妻や子に暴力を振るうようになり、母はスターリンを連れ10年間で9回転居を繰り返す。
母は掃除人や洗濯人として生活費を稼ぎ、スターリンに学校教育を受けさせることを強く希望。しかし、ロシア語を知らないので予備学校で2年間言語を習う。
⇊父

1884年スターリンは天然痘に罹患。命は助かり、顔面に目立つ瘢痕(はんこん:痘痕とうこん、きずあと)が残る。
1888年教会付属学校入学。
父は靴職人を継がせたいため学業反対。連れ去り靴職人にならせようとしたり、養育費を打ち切ったりした。スターリンを金属靴で殴っていた。
母親もよくスターリンを殴っていた。(1935年10月にスターリンが老齢の母を訪ねた際に「どうして私をあんなに殴ったのですか?」と聞いていることから)
スターリンは学校で喧嘩は耐えないが、成績は超優秀。
12歳までに2度馬車(フェートン)にはねられ、後遺症で左腕に障害が残る。
⇊フェートン

1894年8月、奨学金を得て、首都の神学校に入学。
⇊1894年の肖像画

神学校でも当初は超優秀だったが、神学に興味がなくなり(イエズス会の方針に抗議)成績は下がる。
学内で秘密活動の【読書クラブ】に加わり、禁書に触れる。
マルクス著『資本論』でマルクス主義者になる。
本人の発言:「15歳の時(1893年ころ?)から革命運動に加わり、マルクス主義者の地下集団と連絡を取っていた。これらのグループは自分に大きな影響を与え、マルクス主義文学を植え付けた。」
1898年グルジアの社会民主主義組織メサメ・ダシ(第3グループ)に加わる。
※メサメ・ダシとは、1892年に設立に設立されたジョージア州トビリシを拠点とするコーカサスで最初の社会民主党。
⇊メサメ・ダシ・第3グループの翻訳

禁書ヴィクトル・ユゴーの所持、祈禱の欠席、規律違反、反抗的態度で注意や処罰を受け、1899年4月神学校を去る。
ヴィクトル・ユゴーって誰?


※現在はミュージカルで有名な【レ・ミゼラブル】
ヴィクトル・ユーゴーによるフランスの歴史小説。
1832年の六月の乱(June Rebellion)を描いており、政治、正義、宗教を扱う。

【ノートルダムの鐘】も ヴィクトル・ユーゴーの小説。
官能的すぎたり、反聖職者の記述もあるため、カトリック教会は【レ・ミゼラブル】同様、読書を禁じた。
⇊ヴィクトル・ユーゴー

ヴィクトル・ユーゴーはフランス人ロマン主義の詩人、小説家。政治家にもなった。
最初はナポレオンを応援していたが、ナポレオンが独裁に転じた1850年ごろから反対し、19年間亡命生活(フランス → ベルギー → イギリス領チャネル諸島ジャージー島 → ガーンジー島で15年)を送る。
このようなことから、ヴィクトル・ユーゴー作品は、反モナキズム主義者(anti-monarchist:半君主制 主義者)に共感を与えやすいとされた。
<スターリン・就職~革命家へ(逮捕後、逃走・脱走が多い)>

1899年 気象局員となるが、他に社会主義の宣伝活動もする。
1900年メーデー(5月1日)に400〜500人の労働者を集めストライキを実行。
ロシア帝国の秘密警察オフラーナから存在を知られる。
⇊1866年のアレクサンドル2世暗殺未遂以後創設されたオフラーナ (1905年の写真)

8月1日~15日、最大4000人がストライキに参加、500人以上が逮捕される。
1901年3月、スターリンの逮捕を試みるが、スターリンは逃走に成功。
地下に潜り、寄付金のみで活動を行い続ける。
1901年メーデー、約3000人のデモで当局と衝突。
雇われた製油所で2度ストライキを実行、首謀者が逮捕されると、その監獄を襲撃。それに対し軍隊が発砲し、デモ隊13人が亡くなる。
11月、RSDLP(ロシア社会民主労働党)のティフリス委員会に入会。エスデク組織の創設に参加。
⇊RSDLPの党旗は真っ赤!

1902年捕まる。バトゥミ監獄→クタイシ監獄→1903年東シベリア3年間流刑
シベリアで2度脱走:1度目凍傷により断念。2度目トビリシまで戻ることに成功。
スターリンの流刑中、RSDLP(ロシア社会民主労働党)はレーニン派ボリシェヴィキとユーリー・マルトフ派メンシェビキに分裂。スターリンはボリシェヴィキにつく。
1905年1月22日ロシア第一革命:2月には少なくとも2000人が死亡
スターリンは配下を武装させてボリシェヴィキ戦闘部隊を組織、警察や軍隊を武装解除させ、帝国政府の兵器庫を襲撃。
⇊血の日曜日事件 (1905年)

⇊演説するレーニン

エカテリーナ・スワニーゼ(のちのグッティ:配偶者)と会う。
⇊1905年ごろのエカテリーナ・スワニーゼ

代表団の1人に選ばれ、レーニンに出会う。
レーニンを尊敬したが、反駁(※はんばく:批判に反論すること)もした。
スターリンは過去に活動資金のために様々な強盗等をしてきたが、ボリシェヴィキの協議で「銀行強盗禁止」が賛成多数で可決される。
1906年7月エカテリーナ・スワニーゼと結婚。
1907年3月エカテリーナ・スワニーゼ、第一子男の子ヤーコフ出産。
(その年、スターリンは銀行強盗し、家族で転居し、エカテリーナは11月22日にチフスにより25歳で病死する ※後述のチフリス銀行強盗事件参照)

<息子ヤーコフの生涯>
まだ、1907年のことを書いているので、これは、かなり後のことです!
第一次世界大戦(1914年~1918年)とロシア革命(1917年)で帝政ロシアが倒れると、新政府ソヴィエト連峰(1922年~)では、ヤーコフは父スターリンの力で権力の階段を上っていくが、スターリンは1919年にすでに別の女性で政治家のナジェージダ・アリルーエワと再婚、義理の弟も出来ているので、父スターリンとは上手くいってはいない。
ヤーコフはグルジア語しか話せないため、ロシア語を勉強する。
スターリンはヤーコフに対し冷淡で「ただの出来損ない」とした。
ソーコリニキ電気学校卒業後、電気技師になり、ゾーヤと結婚(スターリンは結婚を全く歓迎せず)。
父の態度に思いつめ、ヤーコフは拳銃自殺未遂。
その際にもスターリンは、「あいつは銃をまっすぐに撃つこともできんのか」と罵倒。
その後、ゾーヤと離婚。
技師として働くが、1937年スペイン内戦など世界中が緊迫しだすと、労農赤軍砲兵アカデミー夜間部に入校する。
1938年ユダヤ人女性ユーリャ・メリツェルと再婚。
第二次世界大戦中、1941年に共産党へ入党。
陸軍中尉となり前線に従軍。
1941年7月16日、ドイツの捕虜となる。
他の捕虜の情報から、スターリンの息子が捕虜になったことをドイツ軍が知ることになり、ベルリンのラジオが大々的に宣伝。
スターリンは、「息子が自分を困らせる為にわざと敵に捕まった」と考えた。

当時、ソ連で捕虜は「祖国への裏切り者」であり、家族も同罪として逮捕された。
スターリンは自分の息子にも軍律を適用、ヤーコフのグッティ(配偶者)ユーリャは強制収容所へ送られた。
ドイツ軍はソ連で捕虜になっているフリードリヒ・パウルス元帥とヤーコフの交換条件を持ちかけたが、「中尉(ヤーコフのこと)と元帥を交換する馬鹿が何処にいるのかね」と拒絶、父に見捨てられたヤーコフは落胆し、その後、ザクセンハウゼン強制収容所で亡くなる。
(※元帥:げんすい とは、大将より更に上。軍隊における最上級の階級)

ヤーコフの死因として、収容所での行進時に鉄条網に突進して「撃て!」と叫び、看守に射殺されたとも、電気柵に突進して感電死したとも、自殺したとも、様々な説あり。
チフリス銀行強盗事件
1907年スターリンは、チフリス銀行強盗事件を準備(実行には加わらず、党は激怒するが、追放は免れる)。
警備側死者約40人。25万ルーブル(現在の価値に換算すると、現在約4億120万円程だと思われます)を強奪。
⇊1907年6月27日、ニューヨークタイムズの記事

⇊強盗に使われる一般的な馬車(フェートン)

強盗後、バクー(現在のアゼルバイジャンの首都)に家族で移り住み、イスラム社会民主党(ムスリムのボリシェヴィキグループ)設立を手伝う。

ギャングを再結成。資金を集めるために強盗・みかじめ料の要求・通貨の偽造、身代金目当てに富豪の子どもの誘拐を行う。
ペルシア(現在のイラン)では、パルチザン (※非正規軍のこと) を組織。
⇊1908年の逮捕時の写真

1908年3月逮捕→バクーのバイロフ監獄→2年間の流刑を宣告される→1909年2月に流刑地に到着。
1909年6月、女装し逃亡。
⇊alternatehistory.comに載っている誰かがフォトショップで加工したというスターリンの女装写真!!

1910年3月、再逮捕→送還。流刑中、マリア・クザーコヴァと不倫、隠し子コンスタンティン・クザコフ(1911年 - 1996年)が出来る。
⇊1910年アゼルバイジャンのバクーで逮捕されたスターリンに関する犯罪ファイル

1911年再び逃亡、9月再逮捕→3年間ヴォログダ へ流刑を宣告される。
⇊1911年、サンクトペテルブルクの帝国警察のファイル

1912年2月、再度逃亡後、機関紙、日刊、創刊号を出版する。
1912年5月、再逮捕→3年間シベリア への流刑。2カ月後 逃亡、編集・執筆作業を再開。
1912年後半、オーストリア=ハンガリー帝国領クラクフを2度訪問しレーニンと会い同調、レーニンと裕福な支持者ふふ(夫婦の事)と数週間過ごす。
1913年1月、首都ウィーンに移り、ロシア帝国内の民族的マイノリティの待遇について研究し、レーニンから論文の執筆支持を受ける。
【スターリン:鋼鉄の人】と言うペンネームで論文『マルクス主義と民族問題』を出版、レーニンを満足させる。
⇊【マルクス主義と民族問題】1913年6月出版

1913年2月、再逮捕、脱走が困難なシベリア奥地へ4年間の流刑を宣告される。
リーディア・ペレプルイギナ13歳と関係を持ち、1914年12月頃出産。その子はすぐ亡くなる。(当時の性的同意年齢は14歳)
⇊1915年、ロシア帝国トゥルハンスク。ボルシェビキの革命家たちと共に。左から3番目

1917年4月頃、2子目を出産。
⇊シベリアンタイムズ2016年4月6日の記事の翻訳

⇊シベリアンタイムズの翻訳を鮮明に見たい方はPDFでどうぞ
1917年の革命
流刑中、第一次世界大戦勃発。ロシア帝国軍に召集されるが、腕の障害で兵役不適格とされ流刑に服す。(こういう時は脱走しないで刑に服すところがサイコパス・ソシオパスっぽい気がします!)
首都ペトログラードで二月革命が勃発、帝政崩壊。
帰還後、『プラウダ』の編集局を引き継ぐ。
※プラウダはソ連共産党中央委員会の機関。
1912年5月, ボリシェヴィキ の機関紙として スターリン らの指導下にペテルブルクで創刊。
⇊ポルトガル語のサイトuolより機関紙プラウダの写真

七月蜂起の計画実行に携わり、臨時政府が弾圧を開始。
⇊七月蜂起(第一週)にペトログラードの街中で戦った有名な写真

スターリンはレーニンを事務所から逃がし、隠れ家を転々とさせ、ラズリーフに脱出させる。
⇊七月蜂起を機に漁師に変装したレーニン

レーニンはフィンランドに逃亡し、レオン・トロツキーも逮捕された。
⇊フィンランド駅に着いたレーニン

スターリンはレーニンの代理としてボリシェヴィキを指導し、第6回党大会も監督した。
レーニンが、クーデターを主張しはじめる。
党中央委員会でクーデター決行が採択される。
1917年10月24日、警察が『プラウダ』の事務所を襲撃、10月25日の早朝、スターリンとレーニンは党中央委員会の会合に出席。
ボリシェヴィキの巡洋艦「アヴローラ」が冬宮殿を砲撃、臨時政府議員は降伏。
巡洋艦アヴローラ

レーニン政権下の活動 (1917–1924)
1917年10月26日、レーニンが新ロシア政府「人民委員会議(ソヴナルコム)」の議長を宣言、スターリンは民族問題人民委員に任命される。
スターリン、レーニン、トロツキー、スヴェルドロフが新政府の首脳部「4人組」になる。
(スターリンはこの時、他の人より有名ではない。レーニンが実力者)
⇊スペイン語のサイトsemanaより左(スターリン)、中(レーニン)、右(トロツキー)

⇊スヴェルドロフ

スターリンはレーニンの秘密警察機関「チェーカー」の設立を支持、赤色テロも擁護。
秘密警察機関「チェーカー」のマーク4つ

初期は、わずか40人の役人のみだった。
ロシア内戦が勃発すると、チェーカーはレーニンにより、裁判所の決定なしに、即座に容疑者の逮捕、投獄、処刑などを行う権限を与えられた。
これが粛清の引き金になる。

1919年と1920年に赤軍から300万人以上の脱走兵がいました。
数千人の脱走兵が射殺され、この数は第一次世界大戦の交戦国の被害者数に匹敵した。
1921年にはチェーカーは20万人。
内戦が終結した1922年2月8日、チェーカーはGPUに改名。

⇈NKVDのマーク
1934年にはNKVDの一部局である国家保安総局となる。
※NKVDとは1946年までソビエト連邦に存在した行政機関で、秘密警察や諜報機関などがある。

スターリンの死後、1954年に再び独立してKGBとして存続。
KGBおよび共産圏の秘密警察はチェーカーを模範。
残虐な尋問・拷問・処刑などの手法が受け継がれた。
※赤色テロ(せきしょくテロ)とは、革命勢力や反政府勢力、共産主義政府が起こすテロ。この赤色テロに対して、白色テロとは、反対に 復古勢力や政府が起こすテロのこと。
「白色テロ」「赤色テロ」という用語が本格的に使われ始めたのは、レーニンが樹立したボリシェヴィキ政権から。
ロシア内戦
右派・左派を問わず、ボリシェヴィキの支配への抵抗で、ロシア内戦が勃発。
スターリンは大量の赤軍兵士で白軍を攻撃するが、上手くはいかなかった。
スターリンは反革命分子の嫌疑がある者を逮捕し、時には裁判なしで処刑。
また、軍事・食糧収集に従事する中産階級の「専門家」を政府からの命令に反して粛清し、一部を処刑。
農民が食糧徴発の実施に従わせるため、いくつかの農村を燃やすなど、スターリンによる国家的暴力は、首脳陣が許容する範囲を超えていた。
1919年、モスクワへ戻り、ナジェージダ・アリルーエワ(※政治家。結婚時18~19歳。出会ったのは16歳の時)と3月24日に再婚。スターリン40歳。
⇊ロシアのサイトhistograf.ruより写真抜粋:右ナジェージダ・アリルーエワ

(ナジェージダ・アリルーエワは13年後の1932年、31歳のとき、スターリンとの口論後、拳銃自殺で亡くなる。公式発表では、「虫垂炎による病死」。
スターリンが殺害したという専門家もいる。
結婚した年の1919年にレーニンが、犠牲者を出しすぎるためスターリンを批判。
⇊1919年、スターリン(左)レーニン(中央)、
ミハイル・カリーニン:ロシア中央執行委員会議長(右)

5月、西部戦線でスターリンは脱走兵と反逆者を集め、裏切り者として処刑。
ロシア内戦勝利が確定。
ナジェージダ・アリルーエワの娘スヴェトラーナ・アリルーエワ
⇊大粛清の執行者で秘密警察長官のラヴレンチー・ベリヤの膝の上に乗っているスヴェトラーナ・アリルーエワ。
奥にいるのはスターリン

⇊1967年のスヴェトラーナ・アリルーエワ

スヴェトラーナ・アリルーエワは作家になり、1967年にソ連からアメリカに亡命した。
次のグッティ(配偶者)はローザ・カガノーヴィチという人物らしい(グッティは2人のみなので、愛人という説もある)。
⇊ローザ・カガノーヴィチの写真2枚


他にもたくさん愛人などがいたが、スターリンの残忍さや女癖の悪さを批判すると、その女性たちは不審死か行方不明になった。)
ポーランド・ソビエト戦争
⇊ポーランド語のサイトGimnazjumより写真抜粋
このサイトには、ポーランド第二共和国とボルシェビキロシアとの間の戦争のことで、その後 ソ連に名前が変わったとあります。
また、直接の原因はドイツのオーバー・オスト軍の撤退によるとあります。

人民委員会議が、関心を国外へのプロレタリア革命の拡大に向け、1919年3月には「コミンテルン(※1919年から1943年まで存在した国際共産主義運動の指導組織)」を結成。
1920年2月、労農監査人民委員部の部長に任命され、カフカース戦線にも携わる。
1920年、ポーランド・ソビエト戦争が激化、ポーランド軍がウクライナに侵攻、5月7日にキエフを占領。
5月26日にスターリンもウクライナの南西戦線に派遣される。
赤軍は6月10日にキエフを奪還し、ポーランド軍をウクライナから駆逐、逆にポーランドへの侵攻を決定。(この侵攻にスターリンは時期尚早と考えていたが、レーニンの考えを飲む)
赤軍は失敗に終わる。
スターリンは軍事的役職から解任される。
このことで、スターリンはトロツキーに告発され、トロツキーへの感情が悪化する。
1921年3月18日終戦。
党書記長に就任
1921年2月、支配を拡大を望みソビエト政府は、グルジア民主共和国に侵攻。
スターリンはトルキスタンに赤軍を派遣し、ロシアによる同地域の支配を再確認させた。
スターリンは各々の国民と民族が自己表現の権利を有すべきと考え、3つの自治共和国という構想に反対、「ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国」という連邦国家の樹立を要求した。
⇊1921年 ナジェージダの休暇中の写真

1921年3月、ナジェージダがワシーリーを出産。
1922年の第11回党大会、レーニンがスターリンを党書記長に任命。
⇊第11回党大会の代議員

レーニンの死
1922年5月、レーニンは脳卒中になり、半身不随となる。
静養生活に入り、人民委員会議はスターリンを通してのものとなる。
⇊療養中にレーニンのもとに訪れるスターリン

この時のレーニンとスターリンの考えは一致しない。
レーニンは、「ヨーロッパ・アジア・ソビエト共和国連邦」という名の連邦国家の創設を要求。
それに対して、スターリンは、非ロシア人の独立感情が促進されると考え、非ロシア民族はロシア・ソビエト共和国内部に非ロシア人の「自治共和国」を設けることで満足させられると主張。
レーニンはスターリンを「大ロシア排外主義」として批判、スターリンはレーニンを「民族自由主義」として批判。
妥協案として、新連邦国家は「ソビエト社会主義共和国連邦(Union of Soviet Socialist Republics)」と命名。
レーニンの死去前ナデジダ・クルプスカヤ(レーニンのグッティ:配偶者)をスターリンが叱責し、それに怒ったレーニンと 大きなわだかまりを残したまま、1924年1月21日レーニン死去。
⇊ナデジダ・クルプスカヤ


5月22日レーニンのグッティ(配偶者)ナデジダ・クルプスカヤの要望により、遺書が出される。
レーニンの遺書:「スターリンはあまりに粗暴過ぎる。この欠点は、われわれ共産主義者の仲間うちやその交際の中では我慢できるが、書記長の職務にあっては我慢ならないものとなる」
「背信的なスターリンを指導者にしてはならない」
権力の掌握 (1924–1939)
結局、レーニンの葬儀はスターリンが取り仕切った。
⇊レーニンの葬儀の様子
しかしスターリンは、レーニンの遺書の内容を恥じ、党書記長辞任を自ら申し出る。
レーニンの死後、後継としてスターリン、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、ルイコフ、トムスキーが浮上。
スターリンは政敵の評判を下げていく。
1927年11月にトロツキー、カーメネフ、ジノヴィエフは共産党中央委員会から追放される。
スターリンは より迅速な工業化と、経済の集中管理の促進、穀物供給の危機的状況打開のため、農業集団化の推進をはかる。
スターリンは「貧民階級の味方」で人気を得る。
「世界革命」路線を放棄。一国で共産主義を構築する「一国社会主義」政策を提唱。
スターリン、党と国の両方を統制!
第一次五ヵ年計画
スターリン政権は強制的に集団農場に移行。
農民たちを無理やり分け、「貧農」と見なされた者は集団農場の労働者にされて働かされ、「富農」「富農の助力者」「元富農」とされた者は、銃殺されるかグラグに収容されるか、国から遠く離れた辺鄙な地域へ国外追放となった。
※グラグとは、ソビエト連邦の強制労働収容所のこと。
⇊1923-1961年に存在したソビエト連邦内のグラグの場所。
データは人権団体メモリアルより

2万201人が処刑されたと記録あり。
実際は「富農」に分類された農民は、勤勉な農家であり、弾圧されたことで熱心に取り組む人間がいなくなり、広大な農地を有するソ連は食糧不足に陥る。
「ロシアの穀倉地帯」と呼ばれたウクライナでは、農民たちが餓死した。
大粛清
セルゲイ・キーロフは、スターリンの忠実な部下で、貧困層への真摯な態度で人気があった。
⇊セルゲイ・キーロフ(右)

レオニード・ニコラエが暗殺したが、スターリンがヤゴーダを通じてニコラエフをそそのかしたとする説は根強い。(このころから粛清がはじまる)
人民の敵(人民のための党を裏切るのは、人民の敵である)
党大会で選出された党中央委員会の委員および中央委員候補139人のうち、98人が逮捕・銃殺される。
党大会の党員1956人のうちの1108人が「人民の敵」という烙印を貼られ、秘密裁判で死刑判決を受けると直ちに処刑された。
スターリンは、裁判所に対し、「人民の敵」と判断した者には死刑判決を下し 即、死刑執行を命令した。
取り調べは拷問を認め、罪を認めない者は拷問で「罪」を認めさせた。
スターリンは、10日間の調査で刑を執行できる『テロ組織とテロ行為』という新法案を可決。刑は24時間以内に執行されるという新たな意味も加わる。
メキシコで亡命生活を送っていたトロツキーもスペイン人ラモン・メルカデルにより暗殺される。
⇊トロツキー

ポーランド人、ドイツ民族、朝鮮人という様々な民族を標的とし計35万人(その内の14万4000人がポーランド人)が逮捕され、24万7157人が処刑された。
教科書を書き換え、著名人は存在しなかったように取り除かれた。
公式データ:1937年には35万3074人、1938年には32万8612人が処刑された。
粛清の実行者である秘密警察職員ですら長官が変わると、NKVD職員たちも何万人と粛清された。
1930年代の弾圧による死亡者は200万人前後とされる。
スターリン憲法
1936年12月に新憲法(働かざる者、食うべからず という内容)を制定。
民主主義のような内容だが、対外用に見せかけただけで、実質は一党独裁。


諜報部隊の補強
ドイツ・イギリス・フランス・アメリカ・日本に諜報員を潜入させ、海外の共産党のソ連支持、スターリン支持に成果を出させた。
強制移住
1939年9月のポーランド侵攻後、ポーランド人数十万人を強制移住させた。
1941年から1949年までの間にソ連領内に住む少数民族約330万人がシベリアと中央アジアの共和国へ強制移送された。
ナチスによる短期間のカフカース占領後、すべての山岳民族とクリミア・タタール人計100万人以上が追放。
子ども・妊婦・老人・チャレンジド(障害者)など足手まといとされ射殺や崖から突き落された。
チェチェン共和国ハイバフ村では住民700人を馬小屋に閉じ込め焼き殺した。
スターリンによる統治の間、日本人含む多くの民族がシベリアや中央アジア、カザフ・ソビエト社会主義共和国へ強制移住させ何十万人が亡くなり、生き残った人々は強制収容所内で無報酬で働かされ多くは亡くなった。
1939年ポーランド侵攻以降、各国の捕虜や民間人は約390万人。
1945年の武装解除後にソビエト国内へ強制連行された日本人捕虜と民間人は約57万から70万人とされ、1956年まで非人道的な労働が行われた。
⇊ニキータ・フルシチョフ

1956年2月にニキータ・フルシチョフは「国外追放はレーニン主義に違反する」と非難して無効にしたが、クリミア・タタール人、メスヘティア人、ヴォルガ・ドイツ人が祖国へ帰還するのは1991年まで許されなかった。
この追放の記憶はバルト三国の分離・クリミア危機・チェチェン紛争と深く関わる。
スターリンの死後、チェチェン人に帰還許可が出たが、ロシアへの憎悪が強まった。
クリミア・タタール人はウズベキスタンに移住させられ、ロシア人が住んだ。
スターリンは、中央アジアの団結を恐れ、カザフスタン・キルギス・ウズベキスタン・タジキスタン・トルクメニスタンと5か国に分断させた。
第二次世界大戦と冷戦 (1939–1953)
第二次世界大戦開戦直前の1939年8月19日、スターリンは、ドイツとの間に結ばれた独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)に基づく政策転換を表明。
反共産主義のナチス・ドイツとの協力関係
9月17日・ナチス・ドイツによるポーランド侵攻
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ソビエト支配のポーランド東も、ナチスドイツ支配のポーランド西側同様な圧政を敷く。
スターリンはポーランド・ソビエト戦争での敗戦の仕返しにポーランド軍捕虜2万5千人処分を命じた=カティンの森事件
⇊ポーランド人将校の集団死体を発掘した際の写真

〔カティンの森事件:ソ連のカティン近くの森で2万2000人を虐殺した事件〕ドイツ軍に4443人の将校の遺体が発見されても、スターリンはドイツ軍の捏造だと主張した。
近年、1987年ドルバチョフによる調査が行われ、1992年ロシア政府が【ソ連共産党がポーランド人2万人以上の虐殺を指令し、スターリンが署名した文書】を公表。
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バルト三国への赤軍進駐
進駐初日に反ソ的な住民の大規模な粛清。
現在のエストニアの首都タリンで行進するソ連軍

⇊牛用の貨物列車でシベリアに送られる強制送還のイラスト。エストニアンワールドのサイトには、1949年3月25日エストニアから2万人、エストニアの人口3%がシベリアに送られたとあります。

13万人逮捕、貨物列車により強制収容所に輸送。バルト三国には代わりにロシア人が入植。
スターリンは、第二次世界大戦後、疲弊したナチスドイツを裏切り滅ぼせば、ドイツを共産化できると考えていたという。しかし、ナチス側もソ連侵攻を考えていた。
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スターリンは独伊日三国同盟に(※日独伊三国同盟の日本を最後にしました)ソ連を交えた「独伊ソ日四国同盟(※日独伊ソ四国同盟の日本を最後にしました)」を提示、ドイツは無視。
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1941年6月22日、ドイツ軍が協定を破棄、ソ連に侵入〔バルバロッサ作戦〕
スターリンは、「独伊ソ日四国同盟」が締結直前だと信じていたため、ドイツ軍と争う準備は全く出来ていなかった。
※バルバロッサ作戦:ナチス・ドイツとその同盟国の一部によるソビエト連邦への侵攻作戦のコードネーム。
約500万人のソビエト赤軍の兵士を捕らえ、「飢餓計画」として、330万人のソ連人捕虜と膨大な数の民間人を意図的に餓死させたりして殺害。
大量銃殺やガス処刑で100万人を超えるソ連のユダヤ人をホロコーストの一環で殺害。
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バルト諸国やウクライナ、ポーランドはドイツ軍により解放。
ドイツ軍は強制収容所の跡地からおびただしい数の遺体を発見。平時に拘束した政治犯をNKVDがドイツ軍侵攻地域から順に処刑した遺体。
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1942年12月スターリングラード攻防戦
※スターリングラード攻防戦:ドイツ、ルーマニア、イタリア、ハンガリー、およびクロアチアからなる枢軸軍とソビエト赤軍の戦い。
都市にスターリンの名前が付いていることから、史上最大の市街戦に発展。
1942年7月27日、スターリンの死守命令【ソ連国防人民委員令第227号】
命令【ソ連国防人民委員令第227号】命令なしで位置を離れた者は銃撃、降伏した兵士の家族は逮捕。
前線で後退させないため機関銃の設置。
これにより1万4000人の兵士が自軍によって銃殺された。
またスターリンは市民に疎開を禁じたため、最初の1週間だけで4万人の市民が死亡した。
市街地の90%以上を占領するも、ソ連は反撃し、ドイツは降伏。
第二次世界大戦の決定的転換点のひとつとなる。
死者数:枢軸側が約85万人、ソビエト側が約120万人。
開戦前のスターリングラードの街の人口60万人→終結時の街の人口9800人

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スターリンは「敵の敵は味方」の理屈でアメリカ・イギリスと連合国共同宣言に署名
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1945年ヤルタ会談、ポツダム会談出席。アメリカ・イギリスと戦後の処理を話し合う。
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停戦を無視し、満州国と蒙古聯合自治政府へを攻撃、南樺太・千島へも攻撃
スターリンは南樺太や千島列島に加えて、北海道北部も併合する案をトルーマン(終戦時のアメリカ大統領)に申し入れたが、トルーマンは拒否。
戦後に抑留された日本軍捕虜と日本の民間人は約57万~70万人をシベリアに抑留して強制労働。日本の設備も違法にソ連に運んだ。
スターリンは北海道全体と東北一帯の分割占領を提案したがイギリス・アメリカに拒否される。
スターリンは国際法を無視し、領土を大幅に拡大。
ペルシア回廊では、イギリス軍撤退後 イラン北西部からの撤兵を拒み、イラン領アゼルバイジャンに親ソビエト国家設立を支援した。
その後 ソ連軍が撤退すると、その新しく設立した共和国2つはすぐに倒された。
第二次世界大戦の結果、ソ連は2100万から2800万の国民(殆どが若い男性)が亡くなった。(1921年、1922年に生まれた若い男性の生き残りは、戦争が終わった時点で5 %以下!!その全員に勲章が送られた)
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冷戦
戦後、西側諸国(資本主義の国)は共産主義を恐れて、ソ連と第二次大戦における同盟国だった西側諸国とで冷戦による東西対立が起こる。
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戦後、赤軍は枢軸国の領域の多くを占領(下の地図の赤のエリア)。

チェコスロバキア、ポーランドは実質的にソ連占領下になる。
親ソ連政権がルーマニア・ブルガリア・ハンガリーにおいて樹立。
ユーゴスラビア、アルバニアは、独自の共産政権が権力を掌握。
フィンランドは独立を保持したが、経済的にソ連に依存。
ギリシャ、イタリア、フランスは、共産党の強い影響を受ける。
スターリンは、ヨーロッパのアメリカ軍の撤退がヨーロッパのソ連の覇権に結び付くと考えたが、ギリシャへのアメリカの支援は状況を変えた。
東ドイツは1949年に独立国家と宣言。
スターリンは、中央ヨーロッパの衛星国を直接コントロールする決定を下す。
全ての国々がソ連を踏襲した各国の共産党によって統治されることになった。
1948年ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアが共産政権に向く〔=共産主義ブロック〕
共産主義のアルバニアは同盟国のまま。
ユーゴスラビアはソ連との国交を断絶。
アジア
蔣介石と緊密だったルーズベルトの死後、トルーマン政権が蔣介石への軍事援助を事実上打ち切ると、スターリンは中国共産党への支援を強化。
1949年に中華人民共和国が成立するとスターリンは1950年2月14日に【中ソ友好同盟相互援助条約】を結ぶ。有効期限は1979年2月16日まで。
⇊条約の署名を記念した中国の郵便切手

朝鮮半島について北部に朝鮮民主主義人民共和国を樹立し、金日成を指導者に据えた。
⇊日本軍の制服を着た金日成!本名キム・ソンジュ。
キム・ソンジュは、金日成(キム・イルソン)と改名している。
これは日本軍と戦いながら奇跡を起こす勇敢な朝鮮将軍の伝説的な名前である。

⇊終戦後1945年10月14日の「勝利演説」

朝鮮戦争の前にスターリンは金日成に、中国の毛沢東の賛同を得ることを条件に韓国侵攻への許可を与えた。
量的優位を得た金日成の朝鮮人民軍は一時は朝鮮半島のほぼ全土を手中にしたが、その後国連軍の反攻で中国国境近くまで追い詰められ、スターリンにソ連軍の参戦を要請する。
スターリンは核実験を成功させたばかりで、アメリカとの核戦争を避けるため、金日成の要請を拒否。
スターリンの意向で毛沢東は参戦、義勇兵という名目で北朝鮮を直接支援。
スターリンはソ連のMiG-15部隊を中国軍に編入させ、代理戦争を徹底した。
スターリンが亡くなるまで、朝鮮戦争休戦協定は結ばれなかった。
スターリン死去
1953年3月1日夕食後、寝室で脳卒中で倒れる。
暗殺を恐れたスターリンは鋼鉄の箱のような寝室を複数つくり、施錠すると警備責任者だけがもつ鍵でないと開けられない仕組みだった。
翌朝起きてこないことを不審に思いつつも、眠りの妨げによる叱責が恐ろしく警備責任者は何もしなかったため午後になるまで発見が遅れた。
4日後に死亡。
暗殺説
秘密警察長官ベリヤ(上の写真でスターリンの娘スヴェトラーナ・アリルーエワを膝に乗せている人物)が、毒殺したことをモロトフに自慢した記述あり。
ソ連崩壊後スターリンの再評価
ソ連崩壊後の治安は悪く、その絶望感から、強い指導力のスターリンの再評価につながっている。
2017年のロシアの世論調査で、プーチンやプーシキンをしのぎ「ロシア史上最も偉大な人物」に選ばれる。
クラスノヤルスクでは、一度破壊された記念碑を再建。
2005年モスクワでスターリンの銅像を建設。
2008年、指導要領「ロシアの歴史1900-1945」で、スターリンの恐怖政治を、「誰が寝返って襲撃してくるかも分からない状況下ではやむを得なかった」と記述。
2009年モスクワの地下鉄の柱にスターリンを讃える1944年版ソ連国歌一節が刻まれる。
2011年スターリンの胸像がロシア連邦共産党支部に健造される。
ジョージアのゴリ市にあるスターリン博物館にはソ連を超大国に押し上げた指導者の足跡をたどる展示品とある。
⇊スターリン博物館


⇊博物館の外にあるスターリンの個人的な鉄道車両

しかし、昔の様な大きなスターリンの銅像はすべて破壊されたようです。
たぶんスターリン博物館は、スターリンが1911年に亡命中に部屋を借りた不倫相手・マリア・プロコピエフナ・クザコワ(スターリンとの隠し子コンスタンティンの母)の旧家だと思われます。
⇊マリア・プロコピエフナ・クザコワと何らかの関係があるらしい写真


⇊モスクワタイムズの翻訳を鮮明に見たい方はPDFでどうぞ

また、このモスクワタイムズに現在 書かれている内容は⇊

ロシアのメディアが攻撃を受けています。
少なくとも10の独立系メディアが、ウクライナ侵攻の報道をめぐってブロックされたり閉鎖されています。
モスクワタイムズは、この壊滅的な侵略とロシア社会への大きな影響を取材するため、これまで以上に皆さんの助けを必要としています。
おしまい
おまけ:スターリンの影武者
⇊影武者フェリックス・ダダエフ

ロシアでは何十年もの間、スターリンにある状況下で影武者を務めるという噂があった。
最初の影武者だったコーカサス出身のラシドフは、赤の広場を通過する際に爆弾で吹き飛ばされた。
その後の影武者が、カジ・クムフ村で生まれ・ダゲスタン人のフェリックス・ダダエフである。
ダダエフは、なんと55年間、口を開くと死刑になることを恐れて沈黙を守っていた。
2008年、88歳のダダエフは、プーチン政権に認められ自伝を執筆。
最高指導者になりすますために雇われた4人のうちの1人で、モーターカーデや集会、ニュース映像などで最高指導者の代わりを務めた。
自著でもダダエフはすべてを語ることを拒み、この経歴に触れているのはたった一章だけ。
ダダエフは、第二次世界大戦で大けがを負い死んでいると勘違いされ7人の死体と思われ運ばれた。
その7人中、ダダエフと もう一人は生きていた。
その際、24歳ながら60歳のスターリンに似ているとソ連の諜報員の目にとまり、暗殺計画や退屈な公的儀式から本物のスターリンを救うために雇われることになる。
昔からカジ・クムフ村では、あまりにも似ているので『ソソ』(ジョージア語:グルジア語でヨシフの意味)とからかわれていた。

ダダエフは20 代だったが、化粧と戦争経験の疲労で60歳に見えたという。
メイクとトレーニングが終わる頃、耳以外はスターリンに見えたという。
耳には、肌色の特殊な粘着性のグッタペルカの型を張り付けた。
似せるために、体重は11キロ増やした。
まず茶色を下地に塗り、一般的な女性用のブラシを顔に押し付ける。
これでスターリンの幼いころからある瘢痕ができた。
メイクが固まると、顔に白粉を塗る。
一日中この姿で歩き、晩になると洗い落としていた。
影武者の存在を知っているのは、ごく限られた人々だけだった。
ダダエフは秘密保持の契約に署名しており、親族との交流も禁止されていた。
最も責任が重大だったのが、1943年の米英首脳と会うためにテヘランへと向かうソ連首脳の「出発」を偽装任務したこと。
飛行機を2機飛ばす案が出て、一機目はおとりで、ダダエフが搭乗。
スターリンの格好をし、自動車に乗り空港に着いた。
スターリン(つまりダダエフ)が外国情報機関の目に留まるようにするためだった。
ダダエフはテヘランには行かず、空港までで役目は終わりだったが、この時に暗殺未遂事件が起こった。
もう一人のスターリンの影武者はラシード。
ラシードは、NKVDが雇っていたスターリンそっくりの人物がほかにもいたというが、会ったことはないと言う。
ラシードは1940年代後半から1950年代にかけて、スターリンが死期を迎えていた頃、モスクワ郊外の独裁者のダーチャに住むために雇われたスターリンの替え玉の話を聞いたことがあると言う。
1953年、スターリンの死後、ラシードは地方都市に移り住み、口髭を剃り落とし、次第に頭の毛は薄くなったのだが、あまりに似ているため、街角でジロジロ見られることもしばしばあったと言う。
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